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2007年6月14日 (木)

プロローグ

プロローグ

新聞やテレビではリストラだとか倒産の文字が毎日のように報じられ、「失業率が過去最悪」と言った言葉がどのチャンネルをまわしても目に飛び込んでくるようになってきていた。町では銀行がどんどん閉鎖され、その代わりに血の通わない現金自動支払機ATMだけがあちらこちらに設置され、あの笑顔で貯金箱の人形をくれた窓口のおねえさんたちがいつの間にかその姿を消していた。日本はとても厳しい冬の時代に入っていた。日本だけではない、世界全体が狂い始めていた。アメリカがイラクを攻撃した。戦争を始めれば物がどんどん破壊され新しい需要と供給が生まれる。高価なミサイルが惜しげもなく飛び交い、軍需産業が息を吹き返す。そして戦後の復興に政治家の息のかかったハイエナのような企業が群がる。職を失った者でホームレスになるのが嫌なら軍隊にでも入れというのか、あるいは戦争は増えすぎた人口を減らすのが目的なのだろうか、恐ろしいことだがある意味ではそれは事実だ。身近なところでも深夜のコンビニを狙った強盗事件が頻繁に起こるようになってきていた。一夜に同一犯人が複数の店を襲うこともある。以前の単独犯とは違って組織的に集団で襲うケースも目立ち始めていた。警察もとうとう重い腰を上げて本気で動き出し、刑事がバックルームのモニターの前に椅子を持ち出し、腕組みをしながら夜通し見張っている店もあった。大型の重機でもって外に置かれてある現金自動支払機をそっくり盗む奴まで現れていた。日本は本当に嫌な時代になってしまっていた。

年の瀬も押し迫った深夜、都心から少し離れた住宅街を頭に白いものが混じった中年の男がひとり防寒服に身を包み寒そうに歩いていた。時折、暗い空から雨が落ちてきていた。

「寒いな、今夜はだいぶ冷えてきている。この冷たい雨はこの分では朝までにきっと雪に変わるな、オー、寒い寒い。」

 立ち止まった正樹は暗い空を見上げて冷たい雨を顔に受けながら、そう心の中でつぶやいた。そして腕時計に目をやり慌てて坂を小走りに下って行った。コンビニの夜勤に遅刻しそうだったからだ。

 正樹が白い息を切らせて勤務先のコンビニに着くと、数人の若者たちが店の前でしゃがみ込んでいた。派手に食べ散らかしていたが、正樹のことを見るとそのうちのひとりがゴミをゴミ箱に入れ始めた。ひとりは顔見知りであった。

「正樹さん、これからですか。」

「ああ、そうだよ。今夜は冷えているね。おまえら、そんな所で話してないでさ、中に入ればいいのに。寒いだろうが。」

「それが、オーナーさんがいるから、まずいっすよ。」

「そう、まだオーナーがいるのか。」

正樹が店の中に入ると珍しくこの店のオーナーがまだ残って仕事をしていた。ちらりと見える奥のバックルームの椅子には見かけない少女が顔を伏せながら座っているのも見えた。何かいつもと違う空気を感じた。コンビニの蛍光灯には特殊な仕掛けがしてあって、虫が近寄らないようにできているのだそうだが、実際には冬場でも暖かい店内には虫が少なからずいる。オーナーはレジの横にあるおでんの鍋に自ら飛び込んで死んでしまった虫たちを手早くおたまですくい上げていた。その前を正樹は横切りながらペコリと挨拶をした。

「おはようございます。」

夜中なのに何故か挨拶は「おはよう。」なのだ。皆が使っているのでいつの間にか正樹もそう挨拶するようになった。オーナーは正樹に一瞬だけ目をやると一気に話し出した。

「おはよう。ほら、あれ、奥にいるの。奥にいるあの子、万引きだよ。今、親を呼んだところだよ。あそこに座って母親が来るのを待っている。親が来たら、また少し騒がしくなるが気にせずにいつものように仕事を始めてくれ。」

「はい、分かりました。」

正樹はそう軽く返事をするとバックルームに入った。相当こっぴどくオーナーから説教されたのにちがいない少女の前を通って自分のロッカーの所へ行き制服に着替えた。店のコンピューターで出勤登録を済ませてからほうきとちりとりを持ち再び外へ出た。深夜のコンビニでたむろする若者たちは初めは正樹に対して反抗的な態度をとるが、毎晩、それも休まずに床を這いつくばりながら仕事をする正樹の姿を見ているうちに次第に好意を持つようになる。まださっきの子供たちが外で遊んでいた。正樹は掃除をしながら話かけた。

「おまえたちは他に行く所がないのかよ。他にすることがないのか。」

「なんせ、金持ってないっすからね、仕方がないですよ。」

「どこかでバイトかなんかしないのか。」

「どこも俺らなんか雇ってはくれないし、仮にバイトがみつかってもすぐに首になっちゃいますからね。」

「だから、そこが辛抱なんだよ。仕事は諦めずに何度でも探す、嫌な上司に注意されてもハイハイと我慢して聞くことだな。」

「正樹さんはここ長いっすよね。おれが小学校の頃からだから、もう何年になります。」

「もう十年になるかな。」

「十年か、いないよな、そんなの。それに毎日いるでしょう。休まないのですか。」

「ああ、四年前に店が改装した時に一度休んだよ。」

「すっげえ、ギネスもんだぜ。」

「何を驚いているんだ。夜だけじゃないぞ、俺は、昼間も働いているんだよ。9時から5時、きっちりと皆と同じように働いている。」

「ええ、まじっすか。いったい、いつ寝ているんですか。」

「夜、皆がテレビを視てへらへら笑っている時間に寝ている。」

「すっげええ、連ドラとか視たくないんですか。それにいったい睡眠時間は何時間なんですか。」

「夕方の6時から10時までの4時間だよ。」

「たった4時間、大丈夫なんですか、そんなんで、体。」

「ああ、大丈夫だよ。なあ、おまえら、今夜はこれから雪になりそうだからお開きにして、もうこれくらいで帰って寝たらどうだ。」

「そうですね、そうします。それじゃあ。正樹さんは今日も朝までですか、頑張ってください。」

「ああ、ありがとう。その自転車はライトが点くのか、さっきおまわりさんがうろうろしていたから気をつけろ。無灯火だと捕まるぞ。ほら、そこにある自転車、誰かが駅の近くで盗んで乗り捨てていったものだ。ついでに盗難登録のナンバーのチックもされるから注意しろよ。」

子供たちはそれぞれ違った方角に走り去っていった。また店先は静かになってしまった。

 10年も深夜のコンビニに集まってくる子供たちの相手をしていると色々なことを逆に教わるものである。この地区の一般に不良と呼ばれる連中は何代もさかのぼって正樹のことを知っている。やたらと叱りとばすコンビニの店主もいるが、正樹は少し違った。自腹を切って、寒い夜に温かい肉まんをそっと子供たちに出してやると、子供たちは感激して、急速に仲が良くなる。不思議なものでその後はゴミを食べ散らかさなくなる。ただ、困ることは道で騒音をたてて爆走する暴走族とすれ違う時だ、大きな声で「おーい、正樹さん」と声をかけられることだ。向こうは親しみを込めて挨拶するのだろうが、正樹としてはあまりありがたくはない。でも正樹にとって彼らが深夜に店にいてもらった方が都合の良いこともある。それは彼らがコンビニ強盗から正樹を守ってくれる抑止力になるということだ。さっき子供たちが聞いて驚いたように、正樹はコンビニの夜勤が終わると、今度は半導体の会社に昼間は勤務する。一般の人の倍ははたらいている。毎日、体力の限界まで働いているので、夕方、寝床に入ると2分も経たないうちに眠り込んでしまう。だから今まで羊の数など数えたことはない。しかし寝付いたと思ったら、またすぐ目覚まし時計に起こされる。それが本当に辛い。寝る前に酒など飲んだら、まだ酔いが醒める前に起きなくてはならないから、アルコールは意識してひかえている。無駄な時間というやつがないし、寝ているか仕事をしているかのどちらかで生活にまったく途切れがない。もうそんな生活が10年も続いていた。

 店の外の掃除を終えて中に入ろうとしたら、自転車に乗ったおまわりさんが二人やって来た。

「ああ、こんばんは。どうですか異常はありませんか。」

通常の夜間巡回の途中で立ち寄ったらしく、どうやら中の万引き娘とは関係がなさそうだったので、正樹は彼らの注意が店の中に向けられないようにそのまま外で答えた。

「ええ、別に異常はありません。」

「今夜は寒いですね。特別に寒い。また何かありましたら連絡して下さい。あ、お店のビデオ動いていますよね。」

「ええ、動いていますよ。」

「4台でしたっけ。」

「ええ、そうです。」

「あ、それから、まあ、この店は来ないとはおもいますが、もし強盗が来たら、まあ、ひとつ、逃走経路、どっちに逃げたかだけは確認して下さい。お願いします。」

「分かりました。逃げた方向ですね。それから、おまわりさん、先週は坂上の店がやられましたよね。近所のコンビニはみんな強盗にやられたのに何でこの店はまだなんでしょうかね。」

そう正樹が尋ねると、おまわりさんは笑いながら答えた。

「まあ、強盗も押し入る前には下見をしますからね。店員を見てから入るものですよ。」

「ええ、それって、私が化け物か何かに見えるわけですか。ずいぶん強盗も失礼しちゃいますね。」

「まあ、まあ、強盗は入らん方が良いのに決まっているのだから、それでいいじゃないですか。あんたはこの店の守り神だとおもえばよろしいのでは。」

「おまわりさんはそう言うけれど、いつかこの店にも来ますよ。きっと強盗は来るとおもいますよ。」

正樹はそう言い張った。二人の警官は笑いながら、白い小箱が後ろに付いた自転車にまたがり、ゆっくりと店から離れて行った。

すれ違うように真っ青な顔をしたご婦人が自転車でやって来た。どうやら中の万引き娘の母親らしい。警官を見てきっとびっくりしたのに違いない。その母親は中年のコンビニの制服を着た正樹を見て、正樹をこの店の店長だとおもい、すぐさま謝罪の言葉から入ってきた。

「どうもすみません。娘がとんでもないことをしまして、申し訳ありません。」

この店の前のタイルはよく滑る材質で、雨に濡れたりするとさらによく滑る。少し雨が強くなってきており、母親は体のバランスを崩してその場にすってんころりんしてしまった。

「大丈夫ですか。ここ滑るんですよね。すみません。」

「ええ、大丈夫です。」

「中にオーナーがいますから。どうぞこちらです。」

「失礼します。」

正樹はその母親を先に店に入れるとオーナーに目で合図を送った。そして母親を奥のバックルームに案内し、オーナーと入れ替わるようにしてレジに立った。

 しばらくの間、泣き叫ぶ声が接客をするレジの所までバックルームから漏れてきていたが、次第に母親も落ち着いてきたらしく、30分ほどで完全に静かになった。店の方も最終電車が近くの駅を通過してしまったらしく、バッタリと客足が途絶えてしまった。万引き娘も母親に小突かれながら帰って行ってしまった。

「それじゃあ、後はよろしく。お願いします。」

と一声を残してオーナーもさっさと帰って行ってしまった。今夜もいつものように正樹だけが店に一人残った。

 深夜のコンビニに長く勤めているといろいろな事に遭遇する。近所の人たちは何か事件が起こると留守がちな交番よりも必ず人がいるコンビニに駆け込んでくるからだ。この地区で110番センターに通報した回数が最も多いのは正樹だろう。110番するたびに名前を言わせられるから、センターにはちゃんと記録が残っているはずである。裏の道に人が倒れているといった知らせは毎月一回は必ずある。その大半は酔っ払いだ。飲み過ぎてぶっ倒れていることがほとんどであるが、ただ一度だけ老人が道端で亡くなっていたことがあった。妊婦が急に産気付いたり、子供が怪我をしたり、救急車を手配した回数も正樹の右にでる者はいないだろう。夫婦喧嘩のもつれから、奥さんが店のトイレに逃げ込み篭城した時はその亭主がトイレのドアを壊そうとしたので、初めて正樹は客と乱闘になった。トイレの中からその奥さんが携帯電話で110番通報して、パトカーが五台も店にやってきてやっと決着した。精神異常者、かなりそれに近い変な奴、これが実に多い。歌いながら備え付けのカゴいっぱいにアイスクリームを入れてただ店内をぐるぐる回り続ける。次第にカゴの中のアイスが溶け出してきて店の床じゅうがベタベタになってしまった。酔っ払いは日常茶飯事、老人の深夜の徘徊、昼間に上司にでも叱られたに違いないサラリーマンがコンビニの店員に何だかんだといって文句をつけて自分の憂さを晴らす。更年期障害の中年女性はコンビニ店員の態度が悪いと言って本部にまですぐ連絡する。トイレは一夜に何度も掃除しなければならないし、トイレにたどり着けずに途中の床にお漏らしをするケースが意外と多い。自分の家の水道代を節約する為に店のトイレを利用する奴もいる。外のゴミ箱は行く度に溢れているし、犬の糞まで入っている。家庭の生ゴミも曜日に関係ないコンビニのゴミ箱に夜陰に乗じて持ってくる族もいる。それも車で持ってきて平気な顔で捨てていくから始末が悪い。コンビニは百貨店であり、清掃局でもある。銀行業務もすれば借金の返済も受け付ける。ポストもあれば切手も宅配便も受け付ける。コンサートのチケット、バスや鉄道、ホテルの予約まで手配できる。ケーキも売れば、年賀状の印刷、写真もやっている。そして何より24時間いつでもあかりが灯っている町の交番なのである。困った人たちの避難場所なのだと正樹は常日頃感じている。お客様は自分の立場でしか考えないから無理難題をいつも押し付けてくる。お札が切れちゃったんですけど、これでいいですか。二枚に切れたぐらいなら受けるが、何十枚にも千切られた紙幣は当然お断りする。すると何だこの店は態度悪いぞとが鳴り出す。賞味期限が切れた物を半分食べてしまったけれど、どうしてくれるんだ。それは店の商品管理が悪かったから叱られて当然だが、死んだらどうするんだ、どう責任をとってくれるんだとすこぶる元気な勢いで怒鳴り込んでくる。この店のオーナーの口癖で「俺は客だ。」という奴に限って良い客などいやしない。確かにその通りだと正樹もおもう。まあ、これまでに一番困った依頼はといえば、財産のトラブルからなのか、家庭内でどんないざこざがあったかは知らないが、おばあさんが自分の息子に裏切られたから、金で何とかしてくれませんか。と頼まれた時だ。話を良く聞くと、それは殺人依頼であった。そんなことは出来ませんと言うと、おばあさんは店の前でたむろしているチンピラを紹介してくれと正樹に言い出した。コンビニは確かに何でもするが、殺人はやりませんし、殺し屋の斡旋も致しませんと追い返したことがある。まったく世の中は狂い始めている。コンビニで働いていると人間の弱さや嫌なところが見えてしまう。

 正樹の夜勤の主な仕事は接客ではない。毎時間、トラックで搬入されてくる商品の検査と陳列である。一見、コンビニの仕事は楽そうに見えるがとんでもない。超ハードなお仕事である。頑強な体育会系の大学生でも夜勤の連荘はきついと言うくらい過酷な仕事だ。変な話だが、蝿も深夜になるとちゃんと眠るのである。そんなことを知っているのは夜勤を長くやった者にしか分からないことだ。牛乳パックにとまって眠っている蝿を起こさないようにゆっくりとパックごと外に運んで逃がしてやる。蛾とか蜂もよく店に飛び込んでくるが、正樹はビニールの袋に生け捕りにして、また入ってこないように入り口から少し離れた所で開放してあげる。ただゴキブリだけは容赦なく新聞紙を丸めてたたきまくる。ゴキブリとはその姿形でだいぶ損をしているかわいそうな生き物だと正樹はおもう。

 店内は静まり返り、蝿たちも眠りについた頃、正樹が入荷した雑誌の整理をしていると来店を告げるチャイムが鳴った。ピン・ポンというチャイムの音とともに男が入って来た。店内には他に客はいなかった。外はもの凄く寒かったから、さすがに今夜はもう他の若者たちも集まらなかった。その男は深夜にもかかわらずサングラスにマスク、おまけに深々と帽子で顔を隠し、それは防犯ビデオを意識した格好だった。どこから見ても強盗であった。

「来た。」

正樹はそう短くつぶやいた。やっとこの店にも強盗が来たと正樹は確信した。おまわりさんから自分のことを化け物扱いされて、心のどこかで強盗が来るのを待っていたのかもしれない。正樹は久しぶりに居ても立ってもいられないような興奮を覚えた。気温もどんどん下がり始めていた。外はすでに雨が雪に変わっており、道路も店先もうっすらと積もり始めていて、その男の帽子の上にも白い雪がついていた。

「落ち着け、正樹。」

自分にそう言い聞かせながら、正樹はレジの所に素早く戻った。その男は店内をぐるりと一回りし、他に客がいないことを確かめてから、正樹が待つレジにやって来た。

「ギミマニー。」

英語のようだ。それもかなり訛った東南アジア系の英語だ。きっとこの男、日本に出稼ぎに来て失敗したのに違いない。不景気な日本の風に当たってあまり良いことがなかったのだろう。それでコンビニ強盗をする気になったということは十分に想像することが出来る。あんなに調子の良かった日本経済がここまで不景気になるとは、まったくあんたに同情するよ。だけどコンビニ強盗ほど金にならないものはないぞ、高額紙幣は店員の手の届かない箱の中にどんどん入れられてしまうから、レジの中には2万か3万ぐらいしか入っていない。たった数万円の為に殺人の次に重い刑罰を受けるなんて、なあ、強盗さん、馬鹿らしいとはおもわんかね。正樹は強盗の次の言葉を待つ間にそんなことを考えていた。

「ギブ  ミー  マネー。」

男はじれたように再び言った。そう、そうゆっくり発音したほうが日本人には分かりやすい。そしてポケットから折りたたみ式のナイフを取り出して、今度はたどたどしい日本語で言った。

「金、金だ。」

正樹はその強盗の容姿をよく観察した。心身ともに油が切れたような感じがした。おまけに痩せ細っている。こいつなら勝てると正樹は正直そうおもったが、拳銃を隠し持っていると面倒だったので、飛び掛るのは止めにした。その代わりにその場の空気をぶった切るような勢いでレジの中からつり銭全部をケースごとそっくり抜き出して、そのまま放り投げた。つり銭は飛び散り、カウンターや床にバラバラに散らばった。

「テイキット。」

正樹は英語でそれを持っていけと大声で言い捨て、素早くバックルームに駆け込み木刀を手に取った。その木刀は素振り用の太くて長いもので以前から正樹が用意していたものだ。上段に構えると普通の木刀の倍の大きさがあるからとても相手に威圧感を与える。それは強盗を威嚇する為のもので、決して撃破する為のものではない。あくまでも護身用である。強盗が入った時、財布や携帯を持たずに飛び出た場合のことを考えて近くの交番の電話番号もマジックで書かれてあり公衆電話からかける為に小銭も袋に入れて木刀の端っこにくくりつけてあった。正樹が大きな木刀を手にしたのを見て驚いたのは強盗であった。カウンターの上のわずかばかりの紙幣を鷲掴みにして慌てて逃げ出した。強盗は入り口の開きかかったドアに強くぶつかり、またドアが開くのを待って外に飛び出ていった。しかし次の瞬間、にぶい音をたてて強盗はぶっ倒れてしまった。またタイルだ。さっき万引き娘の母親がころんだあのタイルだ。非常に滑りやすく、これまでにも何度もお客様から苦情があった代物だ。特に雨の日などは滑りやすく、今夜はまた雪でその何倍も滑りやすかったに違いない。後で警察に報告するために店の奥から強盗の逃走方向をしっかりと確認しようと見守っていた正樹だったが、その東南アジアからわざわざやって来た強盗は不覚にも店の前ですっころんでしまったのだった。正樹はしばらくその様子を息を殺して見ていたのだが、強盗は店先で倒れたままだ。いっこうに動こうとはしないのであった。ちょっと待てよ、これは大変な事になったぞ。同じ系列の他店が襲われた時の状況は本部からの回し書きでよく知っている。みな賊は短時間で手際良く逃げ去って、誰も怪我などはしないのだが、ええ、強盗が転んだまま動けない。こんなの防犯マニュアルにないぞ。正樹は困ってしまった。恐る恐る外に出てみることにした。打ち所が相当に悪かったらしく、強盗は完全に気を失っているようだった。足も複雑骨折していて、骨が皮膚の外に顔を出していた。何日も食べていないのか、この哀れな強盗はよほど栄養が足りなかったとみえ、ちょっと転んだだけでもこんな無残な姿になってしまった。店から奪った紙幣とナイフが男のそばに落ちおり、まず正樹はそのお金とナイフを自分の制服のポケットに素早く仕舞い込んだ。そして急いで店に入り、受話器を取った。警察ではなく救急車を手配した。一切、強盗事件があったことは通報しなかった。次に店の救急箱と小板を持って倒れている強盗の所に戻った。救急車が到着するまでのほんのわずかな時間に正樹は骨折した強盗の為に完璧に応急処置を施した。

 救急車が到着し、しばらくして強盗は意識を取り戻した。必死に起き上がろうとするのだがまったく動くことが出来ない。目だけがギョロギョロと動いて正樹のことをとらえた。正樹は救急箱を反対の手に持ち替えて、ポケットから彼のナイフとお金を取り出してそっと見せた。それは正樹と強盗の二人にしか分からない秘密だ。まったく救急隊員たちには理解の出来ないことであった。応急処置がしてある強盗の足を指差しながら、隊員の一人が正樹に言った。

「これはあなたがやったんですか。みごとですね、私たちでもこんなにうまくは出来ませんよ。的確な処置です。どこかで治療の経験がおありなんですか。」

正樹は何も答えなかった。隊員たちは無愛想なコンビニ店員のことをしばらく見ていたが、はっと我に返り強盗を抱え上げて担架の上に乗せた。強盗は正樹から目を離さずにいた。その目がどんどん大きく見開かれていき、やっと状況を理解した様子だった。強盗は正樹のことを見ながら口を開いた。それはフィリピンの公用語であるタガログ語だった。

「あなたはこの世に二人といない本当にお優しいお人だ。」

もちろん救急隊員たちがそれを聞いてもまったく分からない。しかし正樹は完璧にその言葉を理解していた。

「何があったか知らないが、もう強盗はやめろよ。病院で治療が済んだら隙を見てどこかに逃げろ、いいな。ここでの事はなかったことにしてやるから。早く家族のもとに帰ることを考えなさい。」

正樹も流暢なタガログ語でそう答えた。

 足を滑らせて骨を折ってしまった哀れな強盗は担架の上で頷きながら胸に十字を切って、正樹に感謝した。救急車の後部ドアが閉められ、救急車はサイレンの音を引きずりながら走り出した。また正樹だけが一人残された。店の前の道路はもうすっかり雪化粧で真っ白な世界であった。走り去った救急車のタイヤの跡だけがどこまでも延びていた。

 入り口付近のタイルが滑りやすい店は確かに多い。雨などで濡れるとその危険度は一段と増す。もし骨折したのが強盗ではなく子供やお年寄りだったらどうだろう。店にも少なからず責任はあるのではないかと考えた正樹は店のオーナーや本部のスーパーバイザーに滑りやすいタイルを何とかするようにと提言した。しかし銭のかかる話はなかなか進まないのが常だ。一ヶ月、二ヶ月経ってもよく滑るタイルはそのままだった。強盗がそのタイルで怪我をして運ばれたことを誰にも言わなかったから余計に説得力がなかった。そしてだいぶ時が経ち、正樹はもう強盗のことを忘れかけていた時だった。昨日、オーナーが発注をミスってしまって二日分の大量の荷物を捌いている時だった。耳にこびり付いてはなれない来客を告げるチャイムがなった。条件反射的に入り口の方を見ると、あの時の強盗が入って来るのが見えた。今夜はこの前と違って帽子もサングラスもマスクもしていなかった。正樹のことを見ると、ペコリと二度三度と頭を下げ、そして足を引きずりながら正樹の作業をしている所に近づいてきた。躊躇することなく彼の母国語で正樹に話しかけてきた。

「先日はありがとうございました。見逃していただいて本当に助かりました。つい出来心で押し入りましたが、今は深く反省をしております。」

正樹はちっともこの強盗のことを恐いとも憎いともおもわなかった。それより骨折した足のことが気になっていた。

「どうした足の具合は、まだ痛むのか。ちょっと見せてみろ。」

正樹も彼の国の言葉でもって答えた。強盗の顔色は店を襲った時よりはまだましだったが、相変わらず体はやせ細っていた。

「へい、もうだいぶ良くなりました。」

「ちょっと、そこに座ってみろ。」

正樹は強盗を椅子に座らせ、ズボンの裾を手際良く捲り上げ患部を診ながら言った。

「おまえはどこの出身だ。」

「パナイ島でっせ。」

「そうか、パナイ島か。それじゃあ、ビサヤだな。タガログ語よりもビサヤ語だな。俺はビサヤ語は得意ではない。このままタガログ語で話をしてもいいか。」

「へい、もちろん結構でっせ。タガログ語は学校で習いましたし、国の言葉を統一しようという動きがありますからテレビなどではもっぱらタガログ語が使われていますからね、こんなあっしでも理解は出来ますぜ。しかし驚きましたぜ。日本にもだんなのようにあしらの言葉が話せる人がいるなんて、本当にびっくりしました。」

正樹は奥から救急箱持ってきて、血がにじんだ包帯をはずして傷口を診てから新しい包帯を上手に巻き直した。そして手を良く洗って特上の肉まんを二つ蒸し器から取り出して強盗に差し出した。

「お前の足はもうだいぶ良くなってきている。でも栄養を取らないとまた簡単に折れてしまうぞ。ほら、温かいから食え。フィリピンではシオパオだが、ここでは肉まんと呼んでいる。豚肉だ、猫の肉ではないから心配するな。」

 フィリピンではたいていの映画館でポップコーンといっしょに中華まんが売られている。よく人々は冗談半分で饅頭の肉がぐちゃぐちゃで何の肉だか分からないので猫だ猫だとはしゃぎたてるが、調理人以外にはその真実は分からないことだ。確かにシオパオの肉が猫だと言われてみると正樹はそんなような気もする、味が豚でもないし鳥でもない独特なものだからだ。強盗は両手でその肉まんを包んだまま食べようとはしない。

「どうしたんだ。おいしいから食べてみなさい。食べて元気をつけなくては駄目だぞ。」

そう再び言って、正樹は自分の為にもう一つ肉まんを取り出して先に食べ始めた。

「何をしている。温かいうちに食べろよ。うまいぞ、シオパオは嫌いか。」

強盗は首を振りながら言った。

「シオパオはあっしの大好物ですよ。ええ、いただきますよ。喜んでいただきます。そうじゃないんです、あっしは日本に来て何一つ良い事がありませんでしたからね。日本に来ればたくさんお金が稼げるとばかりおもって国を出たんですがね、それは間違いでした。これまで良いことなんか何もありませんでしたよ。それなのに、こんな温かい親切は初めてでっせ。強盗したのに見逃して下さり、こんな温かいシオパオまでくださるなんて、だんなのようなお優しいお人が日本にもいるなんて、嬉しくて喉がつかえてしまって。」

「大袈裟な事を言うな、もういいから食べろ。」

「あっしは明日、東京入管に出頭するつもりなんです。その前に一言だけ、だんなにお礼が言いたくてやってまいりました。それがまた、こんなあったかい親切をしていただいて、なんてこった。」

やっとここで、強盗は肉まんを頬張り出した。

「そうか、明日、入管に行くのか。滞在期間の許可が切れているんだね。強制送還されるわけだね。私にはよく分からんが、お前の為にはその方が良いのかもしれないな。金がなくても生まれた島にいるほうが幸せかもしれないよ。ここにいて死んでしまったんではおまえの家族が悲しむだけだからな。」

「ええ、だんなのおっしゃる通りでっせ。まったく、何もなくても家族のそばが一番ですよ。家に居た時は近所の誰かしらが食事を分けてくれましたからね。こんなに食えなかったことは一度もありませんでしたよ。」

「でもおまえの気持ちもよく分かるよ。親戚の誰かが日本に来て、しこたま稼いで帰ると大きな家が建ったりしてな。それを見た家族があんたも出稼ぎに行って来てよと捲くし立てる。そうだな。」

「ええ、その通りでっせ。あっしも家族の為にと遣って来たんですがね、失敗しました。」

「まあ、人生、悪いことばかりじゃないよ。良いことも必ずやってくるから。それまで家族のそばで待つことだな。ところで、おまえはさっきパナイ島の人間だと言ってたな。おまえに一つ頼みがあるんだがな。パナイ島は大きな島だから頼めるかどうか分からんが、隣のボラカイ島はおまえの所から近いのか。」

「うちらの村からカリボの町まではバスで2時間ですから、ボラカイ島の入り口のカティクランまでなら3時間ちょっとですかね。」

「そうか。おまえ、家に帰ったら、いつでもいいんだが一度ボラカイ島に渡ってくれないか。ボラカイ島の丘の上に共同墓地があるんだが、そこに行って簡単でいいんだが、墓の掃除をやってはくれないだろうか。もちろんお礼は出すつもりだ。」

「礼などいりませんや。いいですとも、あっしに任せて下さいな。そのお墓にはきっとだんなの大切なお人が眠っているんでしょうから。ええ、きれいに掃除をしてまいりましょう。ボラカイ島ですか、あそこはきれいなところですよ。まるで天国のようなところだ。あそこの美しさは半端じゃありませんからね。しかしまったく、だんなには驚かされますよ。あしらの言葉が話せるだけかとおもえば、ボラカイ島のことまで知っていらしゃるんだから。いったい、だんなは何者なんです。」

「そんなことはどうだっていいよ。そうか、行って来てくれるか、すまないな。私も一日も早くボラカイ島に戻りたいんだが、なかなかそうはいかなくてな。」

正樹はボラカイ島の話をして、様々な思いがこみ上げてきてしまった。さっきまでのようには言葉が出てこなくなってしまっていた。コピー機の中から一番大きな用紙を取り出し、そこに墓への地図といくつか名前を書いた。そして丁寧に四つに折って、強盗に渡した。

「そこに書いてある名前の墓をさがして掃除をしてやってくれ、本来なら自分でしなくてはならないところだが、お願いするよ。すまんな。」

「だんなが、そんなに涙ぐんでいらっしゃるんだ、よっぽど大切なお人がそこには眠っていらっしゃるんですね。ええ、任せてくださいな、ちゃんと、どの墓よりもきれいにしておきますから、心配しないで下さい。」

「すまんな。」

正樹はポケットから5万円を取り出して二つに折って強盗に渡そうとした。

「少ないけれど、これは取っておいてくれ。」

強盗はそれを見て、慌てて言った。

「だんな、そんな大金、結構でっせ。礼なんていりませんよ。逆ですよ。先日、見逃してくれたお礼をしなくちゃならないのはあっしの方だ。それはいただけません。どうぞそれはおしまいになってくださいな。」

「いいから、取っておけ。あの島まで行くのにもけっこう金がかかるし、それに花を買ってもらいたいからな。お金はいくらあっても困らんから、いいから、これはとっておけ。」

そう言ってから、正樹は強盗のポケットにそれをねじり込んだ。

 店の前にマイクロバスが横付けになった。コンビニの忙しい朝が始まった。早起きの現場の作業員たちがどかどかと入って来た。道が混む前に現場に移動する為なのか、建設業に携わる人たちの朝は早い。レジにはすぐに弁当とスポーツ新聞、そしてもう一品、カップ麺を持って長い列ができてしまった。正樹は強盗に言った。

「どうやら忙しくなってきたようだ。もうゆっくり話が出来そうにないな、その金はとっておけ。お金はいくらあっても困らんだろう。それからもう馬鹿なまねはするなよ。」

「だんな、お墓のことはあっしに任せて下さいな。必ず行って掃除をしておきますから。だんな、本当にありがとうございました。どうぞお元気で。じゃあ、あっしはこれで失礼します。」

「あ、そうだ、強盗。おまえの名前は何と言うのだ。」

「あっしはイルバートと申しやす。だんなのお名前は。」

「正樹だ。マ サ キ だ。」

「マサキですね。」

「ああ、そうだ。もう強盗はするなよ。一隅を照らすこともまた素晴らしい人生なんだぞ。しっかりと与えられた境遇の中で一生懸命に頑張ること、それはそれでまた美しい生き方だとわしはおもう。日本に来なくてもパナイ島でしっかりと生きていれば、故郷の恵みをたくさん享受できるはずだ。しっかり生きろよ。」

正樹はそうイルバートに言ってレジの前に戻った。イルバートはペコリと頭を下げて店の外に出て行った。もう店の外はすっかり明るくなっていた。暦の上ではもう春なのにそれは名ばかりでまだまだ冷たい北風がイルバートの背中に吹き付けていた。

 イルバートは寒い日本から常夏のマニラに強制送還された。マニラの警察に着いた時には正樹と別れてから一ヶ月の時間が経ってしまっていた。大都会マニラから故郷のパナイ島に戻ったのはさらにその8ヶ月後で、そして正樹との約束を守るためにボラカイ島に渡ったのは3年後だった。しかしイルバートは正樹との約束をちゃんと守った。

 ボラカイ島の名前はダイバーたちの間ではかなり有名ではあるが、まだまだ世間一般にはその名は知られていない。ましてやその場所を正確に言い当てることが出来る者は皆無に等しい。でもボラカイ島はとても美しい島である。訪れた者は誰でもこの島のことを有り触れた表現だが、天国に一番近い島と呼ぶようになる。フィリピンのほぼ中央に位置する周囲が約7キロメートルの小さな島だが、島の中央に4キロメートルも続く真っ白な砂浜がある。何層にも分かれたエメラルドブルーの海、そしてその空間の8割以上を占める大きな青空は想像を絶する美しさだ。ボラカイ島の海の色は毎時間ごとに光の加減で微妙に違ってくる。薄い水色から深い藍色まで、時には緑がかったエメラルドブルーに変化したりもする。椰子の木の下に座って遠くの海を眺めていると、遠くの波の上にかかった雲がその下の海だけにスコールの雨を降らせながら移動したりして、そんないかにも涼しげで南国独特の風景も垣間見ることが出来る。これ以上は決して望めないだろうと言い切れるほどの極上の白い砂浜は魔法を使って人々をボラカイ島の虜にしてしまう。自然の美しさ以外には何も娯楽施設はいらない。ただゆっくりと島を包んで流れていく贅沢な時間さえあればそれでいいのだ。この南の小さな島は地球に残された数少ない地上の楽園の一つだ。最後の楽園と言っても誰も文句は言わないだろう。いや、むしろそう誰かに言いふらしたくなるはずだ。リピーターの多いことがそれを証明している。

 文明社会に疲れた人々はこの島に心の休息と一時の安らぎを求めて世界中から集まってくる。日本で知られるようになる前から、日照時間が短く太陽の恵みが少ない北欧では世界の美しいビーチのベストテンの上位に常にボラカイ島はランキングされ続けてきた。地球の裏側にもかかわらず、多くの北欧の人々がこの浜にやってきて長期の休暇を楽しんでいる。一世を風靡したかつてのヒッピーたちもこの島に自由を求めて集まって来ていた。

 倒産が相次ぐ冬の時代に「癒し」という言葉が流行り始めた日本でもこの島のことは次第に知られるようになってきた。不景気と倒産の嵐で疲れた日本人たちがこの島を訪れた時、やはり誰もがこのボラカイ島のことを天国に一番近い地上最後の楽園と呼ぶようになる。最近ではこの島も開発がどんどん進んで便利になってしまい、以前のような素朴な魅力が失われつつあると、昔よくこの島に来て長逗留をしていたバック・パッカーたちは嘆くけれど、まだまだボラカイ島は圧倒的に美しい自然でもって訪れる人々の期待は決して裏切ったりはしない。とてもきれいな島である。

 イルバートがボラカイ島に着いた時、彼の懐はとても寂しかった。正樹からもらったお金はもう何年も前になくなってしまっていたし、故郷に戻っても仕事には在りつけなかった。それでも彼は正樹との約束を一度も忘れなかった。地元でバランガイのキャプテンを決める選挙があり、有力者から自分に投票するようにと言われて、イルバートは500ペソをもらった。正樹がくれた5万円は3年前だったがブラック・マーケットで両替したら25000ペソになったから、それに比べて500ペソは端た金だ。飲んでしまえば一夜でなくなってしまうところだったが、イルバートはその500ペソで重たい腰を上げた。ボラカイ島へ渡る決心をしたのだった。だからボラカイ島に着いても島の唯一の交通機関であるサイドカー付きのオートバイ、トライシクルに乗る余裕などはなかった。正樹が描いた地図をトライシクルの運転手に見せて道順を教えてもらった。結局、正樹に頼まれた花は買うことが出来なかったけれど、道すがら野に咲く花をいくつか摘みながら丘の上の共同墓地に向かった。ただ正樹との約束を守ることだけを考えていた。イルバートが墓地に着いた時、墓守らしき老人がスコップを持ち古くなった墓を整理していた。その老人の他には人影はなかった。風が海から吹き上がってきていて、とても気持ちが良かった。

「すみません。ちょっとお尋ねします。」

イルバートは墓守に声をかけた。まだ耳は聞こえるらしく、その老人はすぐ頭を上げてイルバートの方を見た。イルバートは老人の近くまで行き、正樹が書いたメモを見せた。

「この墓はどこにありますか。」

老人はそのメモを手にとって、一目見るなり頷いた。

「あそこじゃよ、あそこの花が供えてあるお墓がそうだ。」

イルバートは慌てた。誰かがすでに花を供えていたからだ。

「すみません。あの花は、誰が。」

「マサキ先生じゃよ。毎日、ああやって新しい花を供えている。今時珍しいお人だよ。先生はよっぽど会いたいんだね、また生まれ変わって、あのお墓のお方と巡り会いたいんですね。」

「マサキ先生。そのマサキ先生というのは日本人ですか。」

「ああ、そうじゃよ。この島でマサキ先生のことを知らない者はおらんよ。」

「じゃあ、そのマサキ先生は、今、島にいらっしゃるんですか。」

「ああ、しばらく日本に出稼ぎに行って留守にしておったがな、先月だったか、先生のお母様と一緒にやっと診療所にお戻りになったよ。」

「なんでまた、診療所があるのに日本に出稼ぎに行くんですか。」

「先生のおかげで島の者たちは金がなくても診療所に行くことが出来るんだ。診療所の入り口に箱が置いてあってな、金のあるものはちゃんとその中に入れるが、ないものはいつかお金が出来たときにその箱の中に入れればいいんだよ。薬代がないときも相談にのってくれる。まったくあしらみたいに貧乏な者にとってはありがたいことだよ。でも、診療所の経営は苦しいらしくて、先生は時々、日本に出稼ぎにお行きになるんだ。」

 イルバートは恥ずかしかった。墓の掃除をする約束だったのに、自分より先にマサキ先生が帰って来てしまっていた。でも会わないわけにはいかない。会って謝らなければならないとおもった。

「その診療所というのはどこにあるのでしょうか。先生に会ってお詫びをしなければならないから。」

「パレンケの近くだ。パレンケに行ったら誰でもいいや、聞けばすぐ分かるさ。でもこの時間にはマサキ先生は診療所にはいないよ。最近はいつもこの時間になるとお袋さんと浜辺にいる。浜辺に行った方が会えるかもしれねえよ。」

そう言ってから、老人はまた墓を掘り起こし始めた。イルバートは丁寧に礼を言ってからその場所を立ち去った。

 ボラカイ島はいつものように今日も静かに夕暮れ時をむかえようとしていた。それは毎日繰り返される神秘的で神聖な瞬間だ。

 二人の老人がホワイト・サンドビーチと呼ばれる白い砂浜にいた。椰子の木を背にしながら暗くなりかかった海を見つめていた。二人並んで黙ってベンチに腰掛けていた。真っ赤な夕陽の垂れ幕が二人の影を染め始めていた。

 初老の正樹と母の正子は流木で作ったベンチに腰掛けて目の前のボラカイの海に沈む真っ赤な夕陽を眺めていた。二人は決まって夕暮れ時はここにいた。暗くなりかかった天を仰ぎながら正樹がゆっくりと口を開いた。

「母さん、やっぱり日本に帰ろう。ちゃんとした病院に行こうよ。帰ろう、日本に。」

「いいんだよ、お前がこうしてそばにいてさ、こんなにきれいな島で死ねるなんて幸せなことじゃないか。もうあたしは八十だよ。もう十分に生きたよ。あたしは帰らないからね。日本の薬付けのベットなんか真っ平御免だよ。延命治療か何か知らないが、ただベッドの上で長生き出来ても、あたしゃ、ちっとも嬉しくなんかないさ。毎日毎日、来もしないお前たちをベッドで待っているのは地獄だよ。それよりこうしてこの島でお迎えがくるのを静かに待ていたいんだよ。日本には帰りたくないね。」

「でも、日本で治療してから、またここに戻って来ればいいじゃないか。近代設備の整った大きな病院で完全に治してから、また、このボラカイ島に帰って来ればいいじゃないか、だから、帰ろう、かあさん、日本へ。」

「嫌だよ。あたしはおまえと一緒にここにいたいんだよ。もし今、日本に帰ったら、もう二度とこの美しい島には戻って来れないのに決まっている。分かるんだよ。自分のことは自分が一番知っているからね。最後のあたしのわがままさ。あたしは絶対に帰らないからね。駄目だよ、あたしはもう決めちまったんだからね。お願いだから最後まであたしのそばにいておくれ。お前には迷惑かけるけどさ、お前のそばにいたいんだよ。後生だから、今の幸せを壊さないでおくれ。もう、じたばたしてもしょうがないじゃないか。」

 正樹は母の横顔をじっと見つめた。そこには安らかな運命を甘受する表情が満ち溢れていた。正樹はそれに気づき、話を続けるのを止めた。いつの間にかボラカイ島の海はすっかり暗くなってしまっていた。

 イルバートは浜に出て正樹を捜した。しかし、4キロメートルも続く白浜である。そう簡単には見つけ出すことが出来なかった。日が暮れてしまっていて、暗い浜辺で正樹を見つけ出すことはさらに難しくなってしまった。イルバートは診療所に行ってみようと考えたがやめた。こんな時間に訪問すれば、宿もお金もない自分だ、また迷惑をかけてしまうのに決まっている。もうこれ以上、正樹先生にあまえるわけにはいかない。イルバートは野宿をしても誰からも文句を言われない共同墓地に引き返した。朝になったら、先生の大切なお人のお墓をきれいに掃除して、先生とは会わずにボラカイ島を去ることにした。

 正樹は早朝の散歩が好きである。まず診療所の近にあるパレンケ(市場)の花屋に寄ってサンパギータの花をさがす。もしサンパギータがない時は質素な白い花を買う。そしてその花を持って丘の上の墓地まで散歩をするのが正樹の日課だ。今朝もいつものように明るくなりかけた共同墓地に正樹はやって来た。すると誰かが墓のそばに倒れているのを発見した。男だ。正樹は近づいてそのみすぼらしい男に声をかけてみた。

「もしもし、大丈夫ですか。どうしたんですか。」

すると、男は目を覚まして立ち上がった。

「あ、正樹先生。ご無沙汰しておりました。あっしです。」

正樹はすぐにその男が誰であるのかが分かった。

「お前はあのときの泥棒、確か、イルバートと言ったな。」

「へい、さようでございます。あっしの名前をまだ覚えていてくれたんですね。もったいないことです。あんなにお約束したのに、掃除をしに来るのが今になってしまいました。本当に申し訳ありません。」

「何を言うんだ、お前はちゃんとこうしてここにいるじゃないか。わざわざすまんな。遠い所を掃除をする為だけに来てもらって、本当に有り難う。お礼を言います。ところで足はどうした。おまえの折れた足はもう良くなったのかな。ちょっと見せてみろ。」

「まだ、あっしのことを気にかけてくれているんですか、先生はなんとお優しいお人だ。ええ、足の方はもうすっかり良くなりました。ほら、この通りちゃんと歩けますから、大丈夫です。もしあの時、怪我をしてあのまま逃げていたなら、医者にも行けずに足が腐ってしまったでしょう。きっと今ごろはびっこになっていたかもしれませんね。これもすぐ応急処置をして下さって救急車を呼んでくれた先生のおかげです。有り難うございました。昨日、ここの墓守の爺さんから聞いて驚いたんですが、先生もあっしと同じ様に日本に出稼ぎに行っていたんですね。」

「ああ、そうだよ。おまえと同じだ。そんなことより、イルバート、おまえ、あきれた奴だな、いくら日本と違って寒くないとはいえ、お墓で眠る奴があるか。まったく驚いた奴だな。」

「へい、ここなら野宿をしても誰も文句はいいませんからね。」

穴のあいたシャツはイルバートが文無しでおまけに仕事がないということまで表現していた。正樹はさっき買ってきた花を墓に供えてからイルバートにゆっくりと言った。

「ちょっとあそこの岬までわしと朝の散歩をしないか。」

「ええ、お供いたしますよ。」

  メインロードに出て、しばらくしてまた山道に入った。そんなに急な坂ではなかった。しばらく砂利道を歩いて、ゆっくりと岬まで正樹とイルバートは話をしながら歩いた。

「イルバート、おまえ、子供は何人いる。」

「六人おります。」

「六人か、多いな。まあ、この国では少ない方かもしれないな。わしは二人だ。娘が二人日本にいる。二人とももう嫁いでしまったよ。」

「お母様を島にお連れになったと、墓守の爺さんが言っていましたけれど、これからこちらで一緒にお暮らしになるのですか。」

「ああ、そのつもりだったんだがな、今は少し、お袋をこの島に連れて来たことを後悔しているんだ。お袋の体の具合があまりよくない。もう年だからな。それも仕方がないのかもしれないが、どうしたらよいのか迷っているところだ。」

「お幾つでいらっしゃいますか。お母様は。」

「八十になる。」

「そうですか。失礼ですが、お父様は。」

「おやじはもう死んだよ。アルツハイマーで入院している時に院内感染にあって死んだんだが、葬式の時にな、焼き場の係りの人が親父のわずかばかりの骨を見て、お父様は癌でお亡くなりになられたんですかって聴いてきたよ。毎日、焼きあがった骨ばかり見ている連中の言葉だ。結構、それが正しいのかもしれないな。親父は癌だったかもしれない。」

「さようでございますか、それはご愁傷様です。」

二人は大きな庭のあるお屋敷の前に出た。どこまでも続く塀がイルバートの度肝を抜いた。とても大きな門があり、門から奥へ並木道が続いていた。あまりに庭が広すぎて奥の屋敷の建物が見えない。その道の両側にマンゴーの木がたくさん植えられており、イルバートは完全に言葉を失っていた。正樹が言った。

「着いたぞ。」

イルバートはびっくりして言った。

「着いたって、このお屋敷に入るのですか。」

「ああ、そうだよ。」

何人か子供たちが集まって来た。正樹のことを見るとみんな日本語で挨拶をしてきた。

「正樹先生、おはようございます。」

「おはよう。」

イルバートが驚いたのはそれからだった。敷地の中に入り、屋敷に向かって歩いていくと子供たちが次から次から何人も何十人も出てくるのであった。みな同じように日本語で挨拶をしてくる。イルバートは正樹に尋ねた。

「先生、ここは何かの学校か何かですか。みんな、日本語を使っているではありませんか。」

「なあ、イルバート。おまえ、ここで植木の手入れや家の手伝いをしてみる気はないか。」

あまりに突然のことで、イルバートは何も答えられなかった。

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